2013年11月

2013年11月30日(土)

貫汪館本部の特別稽古に参加しました。

大石神影流の試合口、陽之表、陽之裏、三学円之太刀を学びました。

それから最後は防具をつけての形の稽古です。

 

まずは試合口、陽之表、陽之裏です。

ここまでは自分で何度も稽古しています。一人稽古ですけど。

ですが、相手がいると全く動きがとれません。もっとスルスル動けるはずなのに…と

思うのですが、駄目なのです。一つ一つの動きが止まってしまいます。

打ちになってしまって、切る動作になりません。

やはり普段の稽古で相手がほしい!と強く思います。

 

続いて初めて学ぶ三学円之太刀。

じつは私は柳生新陰流を一年?ほど学んでいた時期があります。

三学、猿飛、天狗抄を学びましたが、柳生流とは全く違う動きです。

当たり前…なんでしょうね。それでも膝を折り敷いての斬撃など似ている要素も見受けられました。

動きはシンプルなように思えるのですが、一つ一つの動作が難しい。

間合いの取り方が難しい。手順を覚えている間にも、力を抜くこと、体軸を意識すること、などの指導を受け、…消化不良になりました。

柳生流の三学や猿飛は割と楽に覚えられたのに…まぁ、あの頃は若かった。

それに絶対、大石神影流のほうが難しい!と私は思うのです。

 

最後に防具稽古。

剣道経験者として、防具をつけた稽古は興味がありました。

一体どんな稽古になるんだろうとワクワクしながら防具をつけました。

防具をつけた形稽古なのですが、思った以上に自然にできた稽古でした。

大石神影流の上段の構えは、なぜ真っ直ぐに振り上げず、斜め横に打ち上げるような軌跡を描いて上段にとるのだろうと思っていましたが、面を着けていればそのほうが自然な感じがしました。試合口も自然です。

さすがに防具で動きが規制されて、陽之表と陽之裏はすべてが防具着用で稽古できるわけではないと思いますが、竹刀での動きにすぐ移行できるものが多いと思います。

大石神影流の動きをさらに深いレベルで体現できれば、そのうち竹刀での自由打ち込み稽古もできるようになるかもしれません。

防具を持っていくのが重くてつらいのですが、本部での稽古があるときは迷わず参加することにいたします。

悲しいのは、防具をつけるとやはり剣道の打ちになってしまうこと。

それでも腰は落ちた状態を維持することができたと思います。

なぜなら、翌日以降の足腰の筋肉痛がとてもひどかったから。

階段をこわごわ降りながら、普段の稽古の取組みの甘さを思い知ったのでした。

 

 

2013年11月24日(日)

寒い季節になりました。18時からの稽古なので、17時半過ぎに家をでます。外はもう真っ暗。往路は自転車で15分くらいで武道館に着きます。長ーい下り坂と最後に急な上り坂があるので、行きはよいよい帰りは…結構しんどいのです。でも、鼠蹊部の緩みというものが自転車を漕いでいると意識できていいと思います。

毎日の生活の中で、武術を意識することが大切です。

例えば力を抜くように指導されていますが、稽古の時だけでは意識まで変えられません。すると日々の生活の中で意識するしかありません。

例えば仕事でノートを取りながら検討することが多いのですが、ペンを握る手の力を抜いたり、筆圧そのものを意識したり。もっともややこしいことを考えていると、ついつい筆圧が掛かってしまいますが、そこはやっぱり修行です。

例えば打ち合わせの場で、努めてゆっくり力を抜いて話をしたり。これには余得があって、相手のことをよく聞くようになりました。しかし、やっぱり興奮すると早口で相手の口を封じんばかりにしゃべり倒してしまいます。…修行です。

 

さて、今日もゆっくり力を抜いてを意識して稽古に取り組みます。

まずは想定を考えます。一人で稽古する居合の場合、想定がとても大切です。

相手がどこにいるのか、自分がどのような状況に追い込まれているのか理解することです。

無双神伝英信流では、極めて接近した状態を想定しています。すぐ目の前や横に相手がいるのです。無駄な動きをしてしまうとそれだけ相手が有利になります。一連の動きが無駄なく滑らかでなければなりません。それに扱う刀が長いのです。私は183センチと割と大柄ということもありますが、三尺の刀を使っています。以前は二尺四寸五分でした。普通であればこれでも長いほうだと思いますが、三尺とはとんでもなく長い。ほとんど竹刀の長さと同じです。この長大な刀で接近戦を戦うのです。体が動かなければどうしようもないのです。

そう言えば、以前「剣道時代」に、江戸初期の大名で津軽信政の居合修行の記事が載っていました。この殿様は林崎流居合の達人になった人で、その修行は三尺三寸の刀の柄頭で床に立てた扇子を抑え、扇子が倒れるよりも早く抜き付け、扇子を両断するというものであったそうです。まず驚かされるのが、三尺三寸。私よりも三寸も長い。江戸時代の殿様が私より大柄であったとは思えないので、その長大ぶりは想像を絶します。つぎに柄頭で扇子を抑える、ということは抜刀は体を引いて行っていたということでしょう。接近戦を稽古する林崎流らしい工夫です。

この殿様は、最終的には扇子に描いた目印の線に沿って切断できるまでになったそうですから、恐ろしい。一体どんな技量だったのでしょうか。無駄な動きがなかったのは分かりますけれど。

修行の道は限りなく遠いということです。

 

無双神伝英信流も林崎流の流れを汲んでいるので、接近戦で刀は長大です。

その想定をよく理解しなければ、無駄な動きとは何なのか分からなくなってしまうと思うのです。

 

さてさて、今日は抜く前の話で長くなってしまいました。

稽古はたくさん行ったのですが、記述はここまで。疲れたので早く寝ます。

 

来週は本部の稽古に参加しますので、北大阪の稽古はお休みです。

 

 

2013年11月16日(土)

本部の稽古で剣道の防具を使用するため、今日は防具を取りに会社の道場へ久しぶりに行きました。防具をここに保管(放置?)していたのでした。ついでに?居合の稽古をしました。会社の道場ですから利用者は限られており、気を使わずに稽古できます。大森流、英信流を繰り返し稽古しました。鼠蹊部の緩みと体を開くように抜き付けること、そして体軸を意識して…というのをいろいろ検討しているうちに、剣道の稽古の時間になってしまいました。さすがに居合だけして帰るとは言い出しにくかったので、一年ぶり(それ以上かも…)に剣道の稽古に参加しました。

 

思ったよりも体は動きました。でも、剣道の動きが出来ません。もともと剣道をしているときから、変わった剣道ねと言われていたのですが、今日はそれ以上でした。

 

まず、歩み足です。以前から歩み足をよく使いましたが、今日はほぼすべて歩み足で体移動をしていました。それに袴に足がとられます。剣道の姿勢はひざを少し緩めて立つので、袴は少し短くしているのですが、今日は短くした袴を引き摺りそうになってしまいました。鼠蹊部のゆるみのせいで、さらに腰の位置が落ちたのです。

 

次に、竹刀の握りですが、右手と左手の間隔が狭くなりました。これはたまたまそのように握ると体全体で竹刀を扱えるような気がしてやったことですが、普段の居合の稽古のときにもこのような握りをすることがあります。あまり注意していなかったですが。

 

腰を落として、右手左手が接近した握りで、歩み足で動く…という相手はなかなかいないでしょう。少しやりにくそうにされていました。といってもこっちもやりにくい。

 

何せ剣道のように、飛び込んで打つことができないため、少しずつ間合いを詰めていかねばならりません。相手はすぐに飛び込んでくる。応対が忙しい。

少しは面を打ったり、小手をとったり出来ましたが、もう剣道の稽古は当分したくないですね。疲れました。

もっと居合や大石神影流の動きが出来るようになってからにします。

ということはいつ剣道の稽古が再開できるか分からないということでしょうか。

 

明日は居合の稽古を頑張ります。

 

 

2013年11月10日(日)

先週から風邪をこじらせてしまいました。喘息の発作まで出る始末でした。

一体何年振りでしょう。それだけ若くなくなってきたということですね。

 

まだ完全には治っていませんが、今日は稽古に行きました。

体が弱っているので、力の抜けた稽古ができました。いいことなのかどうか微妙ですけどね。気づいたのですが、今日の稽古はずっと半眼でした。坐禅を教えてもらった時に、半眼は力を抜いていくと自然にそうなるもので、自分から半眼にしようと思ってやってはいけませんと住職さんに言われました。今思えば、師匠の居合の指導に通じる発言です。とうとう私のレベルも半眼が自然にできる域にまで達したかと喜びました。でも、単純に具合が悪かっただけかもしれません。

 

力が入らないのは分かっていたので、今日はあえて簡単に動いてみようと思いました。「簡単に動く」というのはどう言えばいいんでしょう。敢えて言えば、深く考えずにというのが一番近い感覚でしょうか。いつもは力を抜こうと意識をしていますが、今日は意識しなくても力が入らないので、できるだけ頭の中をからっぽにして動こうとしたのでした。英信流は体が形を覚えているので、放っておいても動きます。その動きに任せて、その動きを見張ってやろうと思ったのです。

すると、やはり気になったのが抜き付けと納刀でした。特に立膝の納刀時には、全体のバランスが崩れるように感じました。違和感は鞘手の動きにありました。

柄手も鞘手も同時に動く必要があります。でも私の場合、鞘手だけが動く瞬間があります。これがバランスを崩すのです。おそらく抜き付けも同じです。体全体が動かずに、右腕だけが動いているから、妙な違和感が残るのです。

と言っても、この違和感を払拭できる技量はまだないのですけどね。

まぁ、違和感を感じれるようになっただけ成長したと考えましょう。前向きに。

 

でも、大石神影流は、まだ自動では動きません。業の名前を思いだし、それから形を稽古します。もっと稽古を積まないと体に沁みこむレベルには至りません。

日々精進。

 

 

2013年11月2日(土)

予定には入れていませんでしたが、予定していた仕事が午前で終わったので、午後の稽古を行いました。

 

でも、まずは出雲大社奉納演武のことから。

ずいぶん前から緊張していましたが、当日もやっぱり緊張しました。

正式参拝は八足門の中まで入って行うことができました。購入した出雲大社マップには、一般の参拝客はここより中に入ることができないとあります。非常に有難いことです。皆でお祓いを受け、師匠が桜門前で玉串を奉納しました。とても清らかな時間が流れていました。これだけで私には十分な体験でした。

 

その後、いよいよ演武です。緊張したというよりも、なんだか分からないうちに終わってしまったというのが実感です。気が付くと業を忘れてしまっている自分がいました。相手をして下さった先輩には申し訳ないことをしました。稽古を重ねたつもりでいましたが、あのような場面で業が出てこなくなるということは、まだまだ稽古不足ということです。今の自分のありのままを奉納できたと前向きに考えます。

 

昇段審査のDVDを頂きました。さっそく家に帰ってみました。ああこれが抜き付けの悪いところかと得心いたしました。また納刀も鞘をこねくり回していて見苦しい。映像を見るというのは、よい刺激になります。が、外から自分を見ても、内側から見た自分を変えることが難しい。刀を振っている私は、決して外から見るように手先で抜き付けを行っているつもりではないのですが、きっとあまり変わらないのでしょう。やはり上手な先輩方の映像をしっかり頭に入れて稽古をするほうがいいように思います。

 

ということで、今日はよいイメージを頭に描きつつ、ゆっくりと稽古しました。力を抜いて感覚を鋭敏に保つように心掛けます。手先で抜き付けをやっているのも少し分かった気がします。納刀も少し上達した気が…。でも何より今日の稽古の収穫は、すごく楽に着座ができたことでしょう。立ち上がる際も、ほとんど腰を浮かせずに右ひざを前へ出すことができました。鼠蹊部が緩んでいるのが分かります。毎日立ったり座ったりを繰り返していた成果かもしれません。

武術の稽古は、毎日やるようにと師匠からも言われています。でも家が狭くて帰宅時間も遅いサラリーマンには本格的な稽古はできません。着座の稽古や、木刀の短いものを利用しての形の稽古になります。このような稽古でも真剣にやると気づきや体の遣い方に違いが出てくるように思います。毎日少しでもいいから続けるように致しましょう。

 

空手の稽古をする子供たちとその親の声が大きくなってきて、気が散りそうになったので、いつもどおりの初発刀と横雲で稽古を終わりました。