繊細に

3月22日土曜朝の稽古。

ヨガ教室の横で稽古です。間は卓球台を立てて仕切にしていますので、互いに視線を気にしなくて済みます。ま、もともと誰に見られていても気にしないんですけど。

 

今日も、大石神影流の陽之裏から稽古開始です。

ここのところ、毎日のように稽古しているので、力の抜き方が分かってきました。体が整ってくるような感覚。力が抜けて感覚が鋭敏になるのが分かる。手の内も締めず緩めず柔らかさを維持できるように。そうすると手や腕の裏側から小指、薬指までのつながりを感じるようになります。繊細になってきました。

武術をやって、繊細になるというのは何だかそぐわないようにも思えます。ですが、一流の剣道家も毎日の稽古を欠かさないのは、稽古で培った感覚を鋭敏に保つためと聞きます。それくらい繊細であるということでしょう。

ゆっくり行う稽古の中では、凡才でも繊細さを感得できるということです。

 

この感覚を持ったまま、居合の稽古を行いました。

工夫の鞘手もトライして、鞘引きがゆったりできるようになりました。これには着付けも大事な要素です。帯を締めすぎると鞘引きで力が必要になります。和装はゆったりと着るべきなのですね。

振りかぶりも斬撃も血振りも小指薬指がつながっている感覚のままで出来ました。

 

横では別流派の女性が稽古をされています。

力が抜けていて、よい居合をされていると思うのですが、速さと力強さを求められて大変そうです。貫汪館ならよい居合を習得できると思います。

私は工夫を重ねて力を抜く稽古をし、横の女性は、頑張って力強く斬撃しようと四苦八苦。おなじ武術を志している者とは思えないほど異なります。

 

流派が異なれば、理合いも稽古方法も異なって当たり前でしょう。

出典を忘れてしまいましたが、尾張柳生の師範代を代々務めた長岡家では、初めから力を抜く稽古をしてはいけないと指導をしていたようです。ということは逆にいうと、最終的には力を抜く稽古をしなければならないということになります。まず力を培い、次いでその力を抜く稽古をする。現代剣道でも、日本選手権で優勝された方と稽古をする機会がありましたが、非常に力の抜けた、楽そうな動きをされていました。そして早かった。尾張柳生では、そのような段階を踏んでいたのですね。

 

”張れや張れただゆるみなきあづさ弓 放つ矢さきは知らぬなりけり”

 

という歌が尾張柳生にはあるそうです。

いろいろな解釈ができる歌ですが、まずは緩みなきように張りに張った状態をまず”力を用いて”作り出すことが大事であると言っていると解釈すると、長岡家の指導方針もうなづけます。

この張った状態を”力”ではなく、繊細な感覚でつくりだそうというのが私の求めている武術です。

 

                              平成26年3月22日