入門者

5月9日土曜午後の稽古


新たに入門者を迎えました。

社会人になって武術の稽古を志すのは大変なことだと思います。

私の場合、小学生のころから剣道をはじめ、大学に入って居合の師匠につきました。

社会人になり、居合の師匠のもとを離れ、しばらく居合の稽古はままならず。

剣道は会社のクラブがあり、アメリカ赴任時にも剣道協会があって細々ながらも稽古を続けることが出来ましたが。剣道はやっぱりメジャーですね。

居合は独習を続けました。剣道稽古の前に一人で道場の隅で、あるいは自宅で(蛍光灯の傘を破損するたびに妻に叱られました…)。いやはや、社会人で稽古を続けるのは大変なものです。ましてや社会人になって武術を始めるのは。


これまでも、入門や見学の照会がある度に、まず体験を勧めてきました。

それも数回通ってもらうようにしています。

興味本位で一度や二度は体験に来ることができても、継続して稽古に来るには、自分の貴重な時間の使い方において選択をするだけの動機づけが必要です。その動機づけになるものを体験の中で見いだせる方のみ体験回数が進み、入門に至る…という具合。


そういう入門者を迎えるたびに、私も気が引き締まります。言葉で説明するよりも、お手本を見せることが大切です。自分に出来る最高の動きを見てもらう。弟子たる者は、師の動きを見て、自身の動きを修正する。私もそうやって稽古に取り組んでいます。

でもですね、それが非常にムズカシイのです。

師匠の動きは自然すぎて、弟子たる私の眼には学ぶべきポイントがよく見えない。すごいなぁと感嘆するだけ。

いえ、段階を追って見えるようになっては来たと自らを慰めてはいますが、それでもまだまだ見えていない。ですので、師匠も言葉で説明をして下さいます。

最初のころなどは、師匠の説明どおりに動けず、「動けません!」「力は入っていません!」と訴えたこともあり、師匠と師範に抱えられるようにして文字通り手とり足とり指導をして頂いたこともありました。最近でも柔術の稽古で同じような指導を受けてしまったのですけれど。


私自身がそのような体験をしているので、つい言葉で説明をしてしまいます。

これは仕方のないことだと思うのです。

ですが、私の体内の感覚を私の言葉で説明をしても、相手が同じ感覚を持つとは限らない。

ここが指導のムズカシイところであり、指導を受ける側も注意を要するところです。

指導を受けた箇所を先導者はどのように動いているのか、よく観察してください。

指導された内容とその際の先導者の動き注意深く見る。これがまず第一歩になります。

その上で、自分の体と心をどのように操るのか。研究をしなければなりません。

何度も何度も動きを繰り返す。そのうち自得できる場合もありますし、先導者のコメントで一気に動きが変わることもあります。コメント自体は過去に何度も聞いたことのあることでも、ふとその意味が霧が晴れたように全身で分かる。そんな経験をするためには、そのコメントを受け入れるだけの体づくり心づくりが必要なのです。たゆまぬ修練が必要になるわけです。


ピカソは画家志望の若者に「一万枚の絵を描けばプロの画家になれる」と言ったそうです。

武蔵は「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」、本居宣長は「才のともしきや、学ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて止むことなかれ。とてもかくても、つとめだにすれば出来るものと心得べし」と言っています。

焦らずたゆまず、稽古を続けてまいりましょう。


稽古日誌なのに、稽古の内容を書く前に疲れました。

今日はここまで。


                        平成27年5月9日