古武道探訪 第一回  2022年4月

古武道 歴史探訪 おおさか市内編

 

 貫汪館大阪支部が所在する地域の武道史について持ち回りで記事をアップしていくということになりました。私からは、おおさか市内編ということで稿を起こしたいと思います。

 

 現在の大阪市住吉区に、摂津国一之宮、住吉大社が鎮座しています。この神社は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が禊払を行われた際に海中から出現された底筒男命・中筒男命・表筒男命(そこつつのおのみこと・なかつつのおのみこと・うわつつのおのみこと)の三神と神功皇后が祭神として祀られており、仁徳天皇が住吉津を開港されて以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、禊払・産業・貿易・外交の祖神として仰がれています*1。古くはこの辺り一帯は眼前に大阪湾が広がっており、紀貫之の土佐日記「住吉の明神」には住吉明神に船旅の安全を祈る様子が描かれておりますし、源氏物語第十四帖「澪標」(みおつくし)では、明石から船で住吉大社に参詣に来た明石の御方が光源氏と遭遇した際のなんとも切ないエピソードの舞台として登場します。

さて、住吉大社は、神功皇后の神話に由来した弓や相撲の神事など武芸とも縁の深い神社です。武芸と云えば、御伽草子の『酒呑童子』によると、源頼光が勅命を受けて丹波国大江山の酒呑童子を成敗するにあたり参詣した三神(住吉明神、石清水八幡、熊野権現)の一で、鬼と戦う際のキーアイテムになる「人が飲めば薬となるが鬼が飲めば力を失う」神便鬼毒酒と、「鬼の首を斬る際に身に着けておくと役に立つ」星兜を老人の化身となって授けてくれたご本体でもあり、国家鎮護の上でも崇敬の篤い神社であることが描かれています。

 

そんな住吉大社に、「天神真楊流柔術」(てんじんしんようりゅう じゅうじゅつ)の奉納額が納められていましたので写真を撮ってきました(令和4年3月 筆者撮影)。

 この奉納額によると、磯又右衛門 柳関斎 源正足を元祖として、田中半兵衛 柳連斎を筆頭に、発起人として12余名、門人40名を挙げ、明治43年(19104月に住吉大社へ奉納されています。

 

 それでは、現在の大阪にも天神真楊流柔術が伝えられているのでしょうか。日本古武道協会の編纂による平成元年(1989)版の『日本古武道総覧』によると、大阪に伝承された古武道として6つの流派名が挙げられており、その中に「天神真楊流柔術」が在りました*2。この資料によると、磯又右衛門 - 磯又一郎 - 井上敬太郎 - 戸張瀧三郎 - 戸張和 という伝系で、戸張道場の門弟数は50名(男47名、女3名)、道場の所在地は、大阪市北区西天満の「堂島ビルヂング」でした。この建物は何回かの改修を経て現存しているのですが、当初建てられた大正12年(1923)の図面が、「株式會社堂島ビルヂング建築概要」に掲載されており、「第三階の312号室に、戦後、地下に柔術道場を開く戸張ほねつぎ療院が入居した」ことが示されています。また、「3階に入居していた戸張ほねつぎ療院は、戦前の武道団体、大日本武徳会に所属し、大阪府柔道連盟会長であった天神真楊流の戸張瀧三郎が運営していた。戦後になると天神真楊流を継いだ妻の和が、ビルの地下に戸張柔道場を開設した。美貌の柔道家として知られ、女優の緑魔子や大原麗子も稽古を受けに来た」というエピソードが紹介されています*3

 

天神真楊流柔術は、嘉納治五郎が入門し、後に立ち上げる柔道の基盤となった流派の一つであり、また、明治期に柔道整復師の確立に尽力し、接骨術をもって多くの人々を治療した師範も少なくないとのこと*4

奉納額やこれらのエピソードによると、かつて大阪の地で天神真楊流柔術が複数の系統で多くの門人を擁して伝承されていたようなのですが、同じ日本古武道協会編による『日本古武道総覧』の平成9年(1997)版では、大阪に伝承された「天神真楊流柔術」は掲載されていません。この柔術流派を大阪で伝える道場は他にないか調べてみましたが確認できていないままであり、失伝しているとすれば、とても残念な状況です。

古武道の歴史探訪 おおさか市内編、第一弾は、今に残る明治期の奉納額から説き起こしましたが、次回も引き続き天神真楊流柔術をたどる旅として、おおさかとのご縁について少し時代を遡って探ってまいりたいと思います。(つづく)

 

 

注記:

*1 住吉大社HP

*2 『日本古武道総覧』日本古武道協会編 島津書房 1989.8 p.40

*3 堂島ビルヂングHP

*4 『日本の古武道』横瀬知行著 日本武道館 2000.12 p.225-239