古武道探訪 第五回  2022年8月

おおさか市内編

 前回4月の第一弾からの続きです。

天神真楊流柔術(てんじんしんようりゅう じゅうじゅつ)の元祖、磯又右衛門は、天明6年(1786)、伊勢国松阪で紀州藩士岡山家に生まれ、15歳のとき京都へ出て一ツ柳織部に楊心流を学び、師の死後は本間丈右衛門に真之神道流(しんのしんとうりゅう)を学びました。その修行中に京都の北野天満宮へ参籠したところ、楊柳の風にたなびく様子をみて感じるところがあったそうで、天満宮から「天神」、真之神道流から「真」、楊心流の「楊」をあわせ、天神真楊流と名付けました。この「楊柳」を例にして「柔の理」を説いているのは楊心流や真之神道流にもみられ、技法的にも思想的にも両派の影響が色濃く反映されているそうです*1

 さて、第二弾でご紹介するのは、この真之神道流です。天保15年(1844)刊の『武術流祖録』の「真神道流 山本民左衛門英早」の項には「摂州浪華ノ人也 楊心流ヲ学ブト云フ 其ノ絶妙ヲ悟リ潜カニ眞ノ神道流ト号ス 門二本間丈右衛門傑出タリ 後江戸二來リ大イニ鳴ル 門人多シ」と紹介され、また『天神眞楊流柔術極意 教授圖解』には「眞之神道流ハ大坂御城同心山本民左衛門ト云フ人、元祖ナリ」とあります。真之神道流を創始した山本民左衛門(享保元年(1716)~寛政10年(1798))は、摂津国浪華(今の大阪市)の出身で、楊心流を学んだ大坂の同心でした。

 

 『新修大阪市史』によると、徳川幕府は、大坂を幕府直轄地として、元和5(1619)に大坂城代と東町・西町奉行、元和9 年に京橋口・玉造口定番(城番)を設置し、行政機構を整備します。この奉行等の実務を執り行ったのが、「与力・同心」です。

次の地図は、文久3年(1863)の「改正増補国宝大阪全図」を筆者が加工したものです*2。西側の大阪湾に至る淀川水系と運河や碁盤目の町割り、東側には大坂城が見えます。地図をよく見ると大坂城を中心に与力や同心の屋敷が多く集まっており、とくに北東の楕円形の太線で囲ったエリアは、今も「北区与力町」、「北区同心〇丁目」と地名に残っています。

 

古武道探訪というテーマから少し脱線しかけている気もしますが、地図にある大川の北側を天満組、破線で示した現在の本町通りを境に概ね北側を北組、南側を南組、三つ合わせて「大坂三郷」と云い、各組には惣会所が置かれ、町人から選ばれた惣年寄を中心にして幕府からのお触れの伝達や年貢の取り立てなどを行っていたそうです*3。写真の赤丸は東町奉行所、青丸が西町奉行所、青、黄、緑のひし形は、北組、南組、天満組の惣会所の所在地です。時代劇でおなじみの江戸の北町・南町奉行に対して大坂に東町・西町奉行があったことを、筆者は初めて知りました。また、大阪の繁華街として有名なキタ、ミナミ、テンマなどの呼称が当時から使われていることは、大阪在住の筆者には感慨深いものがあります。

 真之神道流がその後どうなったかですが、三代目の本間丈右衛門の門下から天神真楊流柔術を開いた磯又右衛門が出ています。初代から三代まで江戸で柔術を教えていた時期があり、その後全国的に広がりました。明治35年(190211月刊行の飯島唯一編『日本武術名家伝』によれば、名古屋を中心にした記述ながら、

・「明治113月、真之神道流柔術 前田武崇、愛知県語学学校教師 マックレーラン、愛知病院医師 ローレツ等の求めに応じ、柔術および活法を紹介演技する」

・「明治321月、真之神道流 杉山令二、講道館において修行する」

・「明治349月、近藤盛一、名古屋一心館 杉山保次郎、杉山令二より小野派一刀流、真之神道流、剣柔二術の免許を受ける。近藤盛一、武術修行のため、三重、京都、奈良、大阪の府県を巡歴する。」

・「明治355月、近藤盛一、武術普及のため上海に渡航、同地人に剣・柔術を教授する。」

とあります*4

西洋人医師らに真之神道流の柔術と活法の技を披露した、剣術と併修し武者修行の後に海外へ普及活動に赴いた等、大きなスケールで活動する真之神道流の軌跡の一部を追うことができます。この「活法」というのは、意識消失に陥った際に施される蘇生法で、整骨法、整体法、救急法、呼吸法、柔軟法等を含む広い意味で捉える見方もあると云います。柔術における活法は広義の医術で、殺法すなわち当て身技や関節技、締め技、投げ技等の武術と表裏一体の関係で発展伝承されてきたものが多いそうで、流派によってその捉え方は様々だということです*5。西洋人医師らが東洋医学と一体になった武術を目の当たりにして何を感じたのか、聞いてみたい気がします。

ちなみに、ここに出てくる杉山礼二氏は、元治元年(1864)今の愛知県の生まれで、明治26年に小野派一刀流剣術の免許皆伝、明治27年に真之神道流柔術の免許皆伝を受けた人物ですが、後に大阪市南区(現在の中央区)で杉山商店を経営し武具を販売していたそうで、剣道用面防具の頬当の改良により発明家として顕彰されています*6。大阪で真之神道流の指導もされていたのでしょうか、何処かにその形跡が残っていないか筆者はとても気になりました。

 

 古武道の歴史探訪 おおさか市内編、第三弾は、真之神道流つながりで、江戸期の大坂の奉行所における武術について、少し探ってまいりたいと思います。(つづく)

 

 

注記:

*1 『日本の古武道』横瀬知行著 日本武道館  2000.12 p.226-229

*2 『改正増補国宝大阪全図』(大阪古地図集成第15)

  大阪都市協会1980 大阪建設史夜話附図

 大阪市立図書館デジタルアーカイブ

(申請不要・二次利用可CC0 1.0 全世界パブリック・ドメイン提供OKにより、

 筆者が原図を抜粋加工しています)

*3 『北組惣会所跡』大阪市顕彰史跡第229号説明資料より

*4 『近代武道の成立に関する研究 -日本武術名家伝の年表的整理-』

   杉江正敏 武道学研究8-3

*5 『柔術「活法」の文献研究』手塚政孝著

  明治大学人文科学究所紀要第472000 p.154

*6 『帝国発明家名鑑』大阪発明協会編1936 国立国会図書館デジタルコレクション