第四回の古武道探訪では、大坂狭山藩について調べました。
狭山市史で「天羽流」が百名ほどの門弟も擁する流派であったことを知り、しかも古文書の複製本が福井県文書館に多く収蔵されていることが分かりました。
で、福井まで行ってきました。
あらかじめ、閲覧したい文書をメールで連絡をしたところ、来館日には用意して待っているというお返事。しかも、遠方なので複写サービスもあるから利用しては?という丁寧な対応を頂きました。
でも、どの文書に何が書いてあるのか分からない。なので、やっぱり現地現物を見にいくことにしました。
福井県文書館は立派な建物で、県立図書館に併設されていました。
さっそく職員の方に来意を告げると、ニコニコと複製本を出してくださり、私が発見できなかった複製本まで用意してくださいました。感激です。
現地現物の効果で、思わぬ資料も発見できました(『田宮流太刀筋聞書』など)。
以下、解読できたことをまとめます。
天羽流の創始者は天羽勘解由定幸。
紀州の浪人で、田宮流、関口流、片山流を修め、諸国をまわり、大坂で道場を開いた人物でした。
大坂で道場!
以前の調査では大坂では武道が盛んではなかったとがっかりしていたのですが、商人の町大坂で武道の(しかも居合の!)道場を開いていた人がいたなんて!
それぞれ師匠も分かって、
田宮流 田宮次郎衛門正房、
関口流 関口万右衛門重利、
片山流 布〇喜左衛門〇政(おそらく布岡喜左衛門良政)。
田宮流も関口流も紀州藩で伝えられた流派です。
天羽勘解由さんが紀州浪人で田宮流や関口流を修めたというのも納得です。
片山流というのは居合の流派ですね。
天羽勘解由さんは居合が好きだったように思います。
何だか親近感が湧きますね。
大坂で「抜合」師範となったと記載されていましたが、「抜合」というのはどう読むのか。
名人と称されたと弟子にあたる人が書いています。
この天羽勘解由さんの弟子に伊藤右近兵衛猛盛という人がいて、小浜藩酒井家の大坂城代を務めていたらしく、帰国後に酒井家家中で子弟を育成したのです。
だから、小浜市に文書が残り、福井県文書館にそのデータがあったのです。
この伊藤右近さんから杉原彦左衛門盛親さんを経て竹岡常右衛門高朗さんに至ります。
この人の発行した文書がたくさん残っていました。
(参考資料の文書のほとんどは竹岡常右衛門さんがかかわっています)
ここまで解読して、楽しさに震える感覚でした。
天羽流は大坂の地で教えられた流派で、五百人余の門弟がいるほど栄えていたのです。
大坂狭山藩の人士が学んだのも無理はないでしょう。
少なくとも小浜と狭山に天羽流の伝系が残り、幕末まで続いていたのです。
ここまでくると、実際の技を見てみたかったと思いますね。
残っていないのが残念。
目録と解説をした文書も残っていました。
目録には「天羽流居合目録」とありますので、抜合という語と合わせて居合という言葉も遣っていたのでしょう。
「天羽流居合道之見分」という文書も残っていました。発行は文政8年9月27日。このころにも「居合道」という言葉があったようです。
やはり天羽流は居合が中心の流派だったようですが、開祖が関口流も学んでいるので、柔術の技もあったように思えます。
「捕手」という技も十六本ほどあります。
今回はここまでの解読が精一杯です。
複製本を一部複写させてもらったので、詳細は日を掛けて解読することにします。
また調べた人や事績が他の文書などで残っていないか”裏”もとりたいですね。
天羽勘解由定幸さんや片岡常右衛門高朗さんは縁もゆかりもない人ですが、非常に親しみを持ちました。どんな人だったのでしょう。
ただこういう調査に不慣れなもので、もう少し資料を複写させてもらえばよかったと思うものもあります。また福井へ出張しなければ。
そして、せっかくだから大坂の天羽勘解由さんの道場はどこにあったのか、天羽さん亡き後はどうなったのか知りたいですね。
どうにか調べる方法はないものか。
『田宮流太刀筋聞書』小浜市所蔵
『天羽流大意』小浜市所蔵
『天羽流抜合目録』小浜市所蔵
<参考文献>
黒田弥生家文書 小浜市所蔵 写真提供:福井県文書館
※掲載の画像は、小浜市および福井県文書館より掲載許可を頂きました
『田宮流太刀筋聞書』1819年(文政2)11月
『天羽流大意』1822年(文政5)3月
『天羽流総目録』1823年(文政6)8月
『天羽流抜合目録』1824年(文政7)9月
『天羽宗抜合見分』1825年(文政8年)9月