今回は第14代将軍の徳川家茂の上洛記録を中心に、幕末の武道事情の一端について、ご紹介させていただきたいと思います。
大坂夏の陣から4年後の元和5年(1619)、第2代将軍の徳川秀忠は、大坂を幕府直轄地とし、寛永5年(1628)には大坂城を再建します。その後、大坂城の城主は徳川将軍で、将軍の留守居役として大坂城代が任命されることになります。しかし、第3代将軍の徳川家光が寛永11年(1634)に入城した後、次に徳川将軍が大坂城に入城したのは二百年以上後の第14代将軍の徳川家茂でした。ペリーの黒船来航が嘉永6年(1853)、当時国内では、幕府がアメリカなど各国に貿易を許可したことに対して、開国に反対して外国を打ち払えという攘夷を主張する勢力も多く、家茂公は文久3年(1863)の朝廷の求めに応じ京都に上洛、その後大坂を訪れます。二百年ぶりの江戸から上方への徳川将軍の行列、しかも国内外の情勢は一触即発、日本の行く末を左右するその行列に対する市井の人々の関心も相当なものだったのでしょう、浮世絵の「御上洛行烈図」をはじめとする様々な絵図が今に伝わっています。
さて、この上洛の際には、将軍の御供方、滞在中の市中警護に当たる警衛方として心形刀流、直心影流、北辰一刀流など腕利きの剣客50名らによる奥詰隊という部隊が組織されました。この部隊の一員として、幕末江戸四大道場の一つに数えられる「練武館」を営む心形刀流の伊庭八郎が居ました。伊庭八郎は、家茂公の上洛の際に「御上洛御共之節 旅中並在京在坂中 萬事覚留帳面」という日記を書き留めており、その記録が「伊庭八郎征西日記」*1という形で今に残っています。
この日記によると、家茂公は江戸から京へ陸路を進み、上洛後には二条城に入っています。伊庭八郎らは近所の宿舎に滞在して将軍の警護などに就くのですが、二条城で上覧試合に参加し、京都の奉行所の与力や同心とも交流試合をしたようです。
~同(元治元年(1864年)二月)二十日 今日御城において剣術方五十人御上覧御座候
少子義は大内志津摩と試合 二度目ニ澤隼之助殿と試合
御下緒小菊紙扇子拝領晝九ツ時歸宅~
<筆者訳>
二月二十日、今日は、京都の二条城において、講武所の剣術方50人で御上覧をした
自分は、大内志津摩と試合し、二度目に澤隼之助と試合した
御下緒と小菊の紙扇子を拝領し、昼の12時に帰宅した
~同(三月)三日 節句二付所所にきはう
今日京地與力同心剣槍御上覧被遊候ニ付 講武所剣術方五十人程相手被仰付
晝時ゟ罷出七ツ半時歸宅 今日之人數二百人程之由~
~同(三月)四日 ~
昨日上覧之者 與力勤メ之者銀七枚同心勤同五枚 部屋住次三男ハ一同三枚ツゝ拝領物有之候
<筆者訳>
三月三日、節句なので方々で賑わっている
今日は、京都の与力同心と剣槍の御上覧ということで、講武所の剣術方約50人が相手となった
昼時に出かけ午後5時に帰宅したが、今日の人数は約200人ということだった
三月四日、昨日の上覧試合で、与力は銀7枚、同心は銀5枚、部屋住の次男三男は銀3枚ずつ拝領した
試合の褒美を皆がもらっている様子から勝敗にこだわったものではないようですが、講武所剣術方は、それぞれ流派を背負って参加しており、まして御上覧として京都の与力同心たちの相手をするのですから、明らかに負けたり、怪我をしたりさせたりということはあってはならないことだったろうと思います。どんな試合だったのか興味深いです。
~同(五月)七日 ~
八つ時頃 大坂京橋御上り場に御着 夫々御行列二テ御城へ被為成候 御城は實ニ日本一存候
五月七日、家茂公一行は淀川を下り大坂へ向かい、京橋で下船し大坂城へ入場します。伊庭八郎が「大坂城は実に日本一である」と記録してくれているのは、大阪在住の筆者としては少し嬉しいところです。
ところで、時を同じくして家茂公の上洛に際し警衛のため組織された部隊に、浪士隊があります。こちらには、天然理心流の近藤周助の養子となり道場を継いだ近藤勇がいました。土方歳三、沖田総司らと浪士隊に参加し、上洛後もそのまま京都に残留し、京都守護職松平容保の下で京都の治安維持を担う新撰組を結成します。*2日記の中には、伊庭八郎らが大坂から軍艦で江戸に戻る家茂公らを見送った後、陸路江戸に帰る途中、東海道の石部宿(現在の滋賀県湖南市)で池田屋事件の一報を聞き、京都へ駆け付けた、という下りが出てきます。伊庭八郎らは、京都の奉行所に迎えられ、京都所司代の稲葉候から事件の顛末の説明を受け、お褒めの言葉を頂戴したそうです。
その後、政治情勢が急変を告げる中、慶応元年(1865)から大坂城を本拠地とした家茂公は、そのまま大坂城で亡くなります。跡を継いだ第15代将軍の徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いの最中、大坂城から江戸へ脱出します。筆者は、これまで大坂は太閤秀吉所縁の町人のまちだと漠然と認識していたのですけど、幕末の数年間、徳川将軍のお膝元でした。
現在の大阪城公園の南側、中央通に面したところに「城中焼亡埋骨墳」という石碑が在ります。これは、慶応4年(明治元年 1868)1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大坂城が新政府軍に引き渡されるに際して、これに潔しとしない幕臣たちが城内に火を放って自害したといい、新政府軍の主力だった薩摩長州両藩の有志たちが、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑と称えて同年7月に、この石碑を建立したというものです。この石碑は「残念塚」「残念さん」と呼ばれ、今でも人々の信仰を集めています*3。筆者が訪れた際にも、お花が綺麗に供えられていました。
これまで武士が担うものであった政治と軍事が大きく形を変えていく明治維新という歴史の局面で、大坂は武士の最後の花道を飾る舞台ともなりました。そして明治以降、武道の在り方も変わっていったことは歴史で語られているとおりです。
*1 大塚武松 編『維新日乗纂輯』「伊庭八郎征西日記」日本史籍協会、1927年 国立国会図書館デジタルコレクション
*2 国立国会図書館 電子展示「近代日本人の肖像 近藤勇」より
*3 「城中焼亡埋骨墳」掲示板より