古武道探訪 第十五回 2023年6月

兵庫県伊丹市編

 第十五回目は、第三回に続きます尼崎藩であった伊丹市について、当時どのような武術や流派が存在していたのか、又は現在も受け継がれているのかを探ってみました。

その前に、かつての伊丹市がどの様な様子であったのかを調べてみることにしました。

 

伊丹市のおいたち

このあたりは、とおく二千年から三千年の昔より私たちの祖先が住み着きはじめ、弥生・古墳時代の文化が発生したところでした。

それ以前、この辺りは川西市久代のあたりまで海だったこともありますが、縄文期海進を最後として、大阪湾に面した瀬戸内の内陸岸として六甲山を背にした地味豊かな土地になりました。気候も温暖で農耕や狩猟の地に適し、山海の珍味が食用に供され、国内でも恵まれた土地だったようです。

 古代から中世に至るまでも畿内の中心として京に近く、西国街道沿いの要路要衝として栄え、交通の発展とともに人が集まり、市場ができ物産が交易され、猪名川の舟運利用と相まって文化が導入され街道は、にぎわいを生じました。

緑ヶ丘の伊丹廃寺や昆陽寺にあらわれた古代仏教文化や、僧・行基の社会事業と昆陽池などの築造による猪名野平野の豊かな穀倉地帯が開墾され「摂津の国の国府をこの地にうつそう」とまで朝議(いまの閣議)にはかられたこともありました。

 文明四年(1472)伊丹氏が築いた伊丹城は日本最初の天守閣を備えていましたが、永正十七年(1520)細川澄元の運勢によって伊丹氏は滅ぼされ、以来、戦国時代の攻防が続きます。そして、天正七年(1574)織田信長の命をうけて荒木村重が伊丹城主となるにおよんで「城つきの町」として町づくりが進められました。しかし、彼も信長に反じて天正六年に伊丹城は灰となり、やがて町は在郷町として経済都市的な酒づくりの町として繫栄し、とくに寛文元年(1661)近衛家領地になるに及んで、五摂家筆頭の近衛家の保護のもとに「清酒づくり」がますます繁盛し、江戸送りの有名酒「丹醸」の名をほしいままに豊かな資金財力を蓄えて、全国各地の藩の諸大名が藩財政の立て直しとして封建社会の世に、ここは例外的な町人社会を築き町の行政財政を牛耳り、惣宿老(いまの町長)も酒造家から選ばれました。

 このような酒産業による町の発展は、おのずから文化遊芸の発祥を促し、鬼貫(16611738)をはじめとする「伊丹風俳諸」の流派を生みました。

 明治に至って、三年(1870)近衛家領地は大坂府に編入の後、兵庫県に編入され四年に区制がしかれ、幾たびかの編纂を経て明治二十二年に町村制がしかれ伊丹町となりました。

JR伊丹駅の前にひっそりと佇む伊丹城址(有岡城)

 

大阪城天守閣蔵 大江(復元)

軍記物語『陰徳太平記』には身長6尺(約180cm)以上あったと記されている荒木村重ですが、この刀は一般的な刀より長く、実際にこれを使いこなせるような大男だったようです。

「大江」は、日本刀の種類の中では打刀に属し、騎馬戦よりも徒戦に適した刀剣とされている。大江は、越中国(現在の富山県)の刀工「郷義弘」が打った無銘の刀剣です。そして、郷義弘の作品中で最も完成度が高いとして、号に「大」の字を付け「大江」と呼ばれている。

もともとは、室町幕府の足利将軍家が所有した刀剣であったが、永禄十一年(1568)に「織田信長」が所有することとなる。信長は織田家家臣の荒木村重にこれを下賜。荒木村重は織田信長に謀反を起こし、討死にを遂げたその後、売りに出されていた大江を刀剣鑑定家の「本阿弥光二」が発見。織田信長に献上するも信長は謀反を起こした家臣の刀剣など不吉であると受け取らなかったのだという。時代が流れ大江は、「豊臣秀吉」が所有することになるが、さらに嫡子「豊臣秀頼」へと引き継がれる。大江については、豊臣家の刀剣台帳である「豊臣家御腰物帳」(とよとみけおこしものちょう)に記録がある。元和元年の「大坂夏の陣」で豊臣秀頼が自害し豊臣家は滅亡。大坂城にあった大江は、そのときに焼けてしまい現存していない。

 

 

 

信長と戦った荒木村重について

 群雄割拠の戦国時代、天下統一を目指す織田信長の配下として各地を転戦して武功をあげ、政治経済の要地となった摂津国を支配していた武将。

重臣の一人として信長から大きな信頼を得ていた村重は、豊臣秀吉や明智光秀などの名だたる武将と肩を並べた強者であるとともに、茶や能楽に通じた文化人としても一目を置かれていた。しかし、現代に於いては卑怯者との評価をされている。突如として信長に反旗を翻し、一年あまりの攻防の末、妻子を置いて有岡城から脱出したと言われている。同時に地方豪族の家臣から立身するも絶頂期で転落し、晩年は茶人として生きた数奇な一生は、これまで多くの小説のモデルともなった。

 そんな荒木村重の武道に関する文献などによれば、遠く荒木摂津守源村重を流祖として孫にあたる荒木夢仁斎源秀縄から伝承された荒木流拳法が残っているとのこと。

古くは、中国拳法から発達した戦国時代、天正の時代の遺産であるらしく、荒木夢仁斎の頃に実戦体験から武術として伝えられたものなのだそうだ。この武術は、現代から見れば原始的要素を多分に持っているのだそうで、武術が剣術、柔術などに体系づけられる以前のもので、棒、鎖、小具足、長巻、刀術、拳法などが未分化のまま受け継がれている総合武術である。また、荒木流拳法は、鍛錬に鍛錬を重ね、特に礼や節度など人格形成を大切にするという意志が現在も受け継がれている。

 次回は、この地にまつわる武道史について、さらに探索の旅へ参りたいと思います。

 

 

参考資料

兵庫県立歴史博物館 織田信長朱印状、

大阪城天守閣蔵展示、

市立伊丹ミュージアムリーフレット、

日本古武道協会加盟流派紹介、

武芸流派大辞典30項~36