2014年1月4日(土)
明けましておめでとうございます。
3日の夜、妻の実家の長野から帰ってきました。
ぐーたらした正月を過ごしてしまいました。普段の睡眠不足をここぞとばかりに取り返した格好です。
すっかりなまってしまった体を起こしに、4日の午前に稽古始めを致しました。
ですが、この日は太極拳の方たちと、途中から参加のスポーツチャンバラ?の人たちの話声や掛け声に注意を殺がれ、あまりよい稽古はできませんでした。
もちろん私の鈍った体もよろしくないのですけれど。
これしきのことで、稽古に支障を来たすようではいけませんね。
前回と同じく、大石神影流の稽古から始めました。
鼠蹊部を緩めてゆるゆると立ち、一本一本、仕太刀と打ち太刀を交互に遣いながら稽古をします。正月中も、妻の実家では他にすることがなかったので、ゆっくり坐ったり、じっと立ったりしていました。うまく力が抜けてよい感じでしたが、そのイメージのまま稽古をすることができました。
さて、次は居合の稽古を、と思ったところから、太極拳の人たちのおしゃべりが喧しくなってきました。掛け声や気合いならまだしも、おしゃべりを大声で話すのは、共用している他者への礼儀がなさすぎるのではと思いますね。
気にしないようにしますが、どうも集中できません。まぁこういうときもあるでしょう。集中できないなりに、静かに稽古しようと気分を切り替えました。
貫汪館での稽古で一番大変なのが、力を抜くことです。
自分では力を抜いているつもりですが、師匠に指摘されると力が入っていたのが分かるということを繰り返しています。こんなところまで力が入っていたのかと驚きます。静かにゆっくり稽古をすると、どこに力が入っているのか分かる…こともあるというメリットがあります。かつて指摘を受けたところはゆっくりとした稽古で「力味」を感得することができるのですが、まだ指摘を受けていないところを自分で発見するのが非常に難しい。
とはいえ、一から十まで師匠のお世話になっては不肖の弟子になってしまうと言いますか、自己開発が出来ないと言いますか。不肖の弟子ではあるのですが、そこはやはり顔回とまではいかぬまでも、子貢は目指したいところなのです。
じっくり自分の体の内部を覗くような稽古をします。
そういえば、以前、太極拳の先生とお話をする機会がありました。太極拳でも上達するほど力を抜くことを学んでいくのだそうです。脱力のことをなんだかむずかしい漢字で書くのだそうですが、そういう言葉を開発したくらいに脱力のことは重要視している由。そのときは、貫汪館に入門する前でありましたので、力を抜くくらい簡単では?と浅墓な感想を抱いたものです。まったく感想を口にしなくて良かった。
今ならどのような稽古を積んでおられるのか尋ねるところなのですが。
でもまぁ、結局は自分との会話というか心配りというか、今わたしがやっているような稽古を地味にやっていくしかないのであろうと思うのです。
ただし。やはり適切に指導してくれる先達があっての稽古なのです。顔回や子貢に対する孔子のように。
ふむふむ、うんうんとやっているうちに、スポチャンの掛け声や太極拳おしゃべりも忘れてあっという間の二時間でした。
午後から娘と約束があるので、今日の稽古はお仕舞いです。