稽古に出かける前から、みぞれと雨がまざって降っていました。
私は割と雨が好きです。学生時代は六畳一間の下宿から、雨や雪が降っているのをぼんやり見ていたものでした。不思議と気分がすっきりしたものです。あれはきっとぼんやりしていた時間が気分を変えてくれたのでしょうが、雨や雪はぼんやり眺めるのによいものなのです。そういえば、川もぼんやり見るにはいいのです。が、橋の上からぼんやり川を見ていたら、お巡りさんに声を掛けられたことが何度かあります。自殺しそうに見えたみたいですね。ここでタバコでも吹かせれば、ああ、あいつはタソガレているんだなぁと思ってくれるのでしょうが、私はタバコを吸えません。ただぼんやりしているのは、何かアヤシイ感じがするんでしょうね。ただぼんやりしていることを示す、タバコ以外のアイテムはないかしら。
ともあれ、雨の中、傘をさして出かけました。
今日は少し早めに家を出たので、念願の大学突破ルートを開拓することにしました。
近所に大阪大学吹田キャンパスがあります。自宅と道場の真ん中に大きな敷地で居座っているものですから、大きく迂回しなければなりません。
大学構内を突っ切って行けば、きっと早く着くはずです。
構内には簡単に入れたのですが(なんせバスも通ってますから)、目的の道場ちかくの一般道に出る門がありません。あっちをうろうろ、こっちをきょろきょろして、ようやく門を見つけて、武道館に着いたら、いつもより大幅に時間が掛かっていました。おそるべし、大阪大学。
たくさん歩いたので、準備運動はバッチリです。もっとも貫汪館では準備運動などしないのですけど。
今日は丁寧に取り組もうと思いました。だからテーマは「丁寧に」。
どういうふうに「丁寧に」稽古するかと言うと。
英信流表から取り掛かりました。まず、力を抜いて、膝や股関節を緩めて、楽に立ちます。右足を一歩静かに前に出します。この時に重心が滑らかにわずかに前に動きます。いやいや、逆ですね。重心が滑らかに前へ動いていくのに連れて右足がそっと前へ出るのです。こういう感覚を大切にしながら動くのが丁寧な稽古であると思っています。
着座の際も重心が最終目的点までまっすぐ降りるように動きます。
抜刀も出来るだけ腕の力を抜いて、体捌きで抜くようにします。ゆっくり動くので刀の重さを感じることができます。そうです。刀の重さを感じること。これが大切なことだと考えています。
宮本武蔵も太刀の道ということを教えています。力任せに早く振ろうとせず、太刀の道に従って大きくゆったり振ることが大事であるということです。その太刀の道を知るために、宮本武蔵は当初は多かった形の数を整理していって、最後にはたった五本の形に収斂させたようです。
夢中で稽古に取り組んでいると、つい刀の重さを感じとれなくなります。つまり太刀の道を忘れているのです。だから、斬撃の際に刀がぶれたり、切っ先が働かなかったりするのです。刀の重さを感じ取れれば、太刀の道が分かり自然と収まるところへ収まるようになる。『云為』の世界です。刀の重さを感じ取れるようになるためには、無駄な力や無理な姿勢を排し、ゆったりと丁寧に刀を取り扱わねばなりません。
刀に導かれるままに、自在に体がついていく。これが今、私が目標としている体感です。名付けて「刀先体後」。別に名付けなくてもいいんですけど。
刀の重みを感じられるか注意しながら、何度も同じ業を繰り返したり、先に進んでは前の業に戻ったり、じっくり稽古に取り組むことができました。これも外が雨であるせいでしょうかね。
木刀に持ち替えて、太刀打と詰合の稽古も「刀先体後」になるように、木刀の重さを感じながら動きます。
大石神影流も「刀先体後」。訳あって、陽之裏をひたすら繰り返します。過去二回の大舞台、昇段審査と出雲大社演武では形を度忘れしたり、間違えたりしてしまいました。打太刀がいるようにイメージして動きます。これが一人稽古の悲しさですが、是非もなし。
またまた居合刀に持ち替えて、大森流や英信流表に取り組んで、最後は横雲と最近気に入っている稲妻を抜いておしまいです。
またまた2時間半があっというまでした。
しとしと降る雨の中、帰りはズルして電車を使いました。ちょっと疲れてしまったのです。
平成二十六年二月八日