鏡を用いた稽古

普段の稽古では、鏡を用いて稽古はしません。

鏡にうつる自分の姿はあくまで外見なので、外見だけみて、形を作ろうとしてしまうからです。

外見をつくるのではなく、無理無駄や自分の思い込みを削っていって、結果としてそのような外見になるのです。

「そうする」のではなく、「そうなる」。そんな稽古をするのに、鏡は時に悪い影響を与えてしまいます。

 

とはいうものの、実は私も何年も鏡の前で稽古をしていた経験があります。

始めて学んだ無双直伝英信流では、師匠の道場に等身大の鏡が置いてあり、その前で稽古をしていました。

初心のうちは、自分がどんな状態になっているのか分からないので、自分の内部感覚とその結果である形を確認しながらの稽古は益するところが大きかったと今でも思っています。

 

ですが、ある程度稽古を重ねると鏡を「うるさく」感じるようになりました。

その時の師匠からも、鏡を意識するなと指導されたことを覚えています。そのレベルは越えたのだと。目の前に鏡があって、意識するなと言われても…と思ったことが懐かしい。

師匠の道場はご自分で建てられた小さな道場で、一人しか稽古できるスペースがなかったのです。

 

ということで、自分の内部感覚の結果である形が、まだよく分からないのであれば、鏡は利用価値があります。

ですが、本質は「そうする」のではなく「そうなる」ように稽古すること。

外側に現れた形は結果です。結果をつくるために、不要な力を入れてはいけません。

無理無駄をなくす稽古。

その工夫が私にはとても楽しい。

結果として、浮雲で後ろに転がってしまっても。浮雲はムズカシイ技で昔は(といってもそんなに昔ではありませんが)、よく転がっていました。

 

工夫しましょう。