勝手の違う稽古で考えたこと

引越しをしたため、家のネットワークが使えず、更新が遅れました。

かつ、1月28日の稽古は大阪女子がお仕事のためお休みで、久しぶりに男二人での稽古になりました。二人で稽古をすると写真を撮る暇がないので、掲載している写真は少し前のものです。

 

さて、稽古は普段しない形も。

居合は、大森流、英信流表、太刀打、詰合、大小詰。

剣術は、試合口、陽之表、陽之裏、三學圓之太刀、二刀、小太刀。

柔術は、吉掛。

 

一緒に稽古をした時間が長く、奉納演武でも一緒にすることが多いのですが、

普段稽古していない形では、なんだか息が合わないというか、我が出るというか、調子がでません。勝手が違うというべきかも。

道場が非常に冷えていたのもありますが、なんだか動きがぎこちない。

 

 

 

稽古は重ねなければなりません。勝手が違うように感じてしまうのは、積み重ねが足りないのですから、反省点です。もっと稽古を積まなければ。

でも、他の形の稽古を重ねているので、そこで十分に稽古を積んで心と体が働くようであれば、普段つかわない形もある程度はできるはず。

まだまだ学んでいる形の所作のみを修しているということですね。

「猫の妙術」という文章がありますが、鼠を捕るための所作のみ修している黒猫に対する訓戒が「ねらう心あることをまぬかれず」。

こう来たらこう返すという稽古をしていると、本来学ぶべき体の遣い方を限定してしまうのだと思います。

私が学んでいる三つの流派は、いずれも素朴な技ばかり。特殊な体の遣い方を教えているのではなく、根本となる体の遣い方は単純だけど精妙。それをいかなる場でも使えるように形があり、その稽古を通して心の遣い方を学んでいるのだと考えています。

自由な心を得るための稽古ですね。

楽しいですね。よくよく稽古していきましょう。