居付かない

もう暑くなってきましたね。水分補給を忘れずに稽古したいと思います。

熱中すると休憩をとるのを忘れがち。いろんな意味で熱中症になってしまいます。。。

 

居合は大森流と英信流表から横雲、稲妻、浮雲、山下風を稽古。

改めて技の名前を並べると、風雅ですねえ。

浮雲や山下風は想定が難しく、体の扱いも難しいです。

できなくて当たり前だと思いますので、ゆっくり取り組みましょう。

 

剣術は試合口、陽之表を途中まで。次いで高知で演武する長刀、棒、小太刀。

柔術は時間がなくなってしまって、込入を中心に履形や吉掛、打込で同じ技を確認。

 

長刀も棒も、得物をしっかりと持ってしまうと得物の持つ利点を発揮できません。

手の内を柔らかくして相手との間合いに応じて得物を手の内で滑らせることが大事です。

右手も左手もこだわりなく、扱えなければならないのです。

これも難しいのですが、普段稽古していることを改めて手の内に特化しているだけです。

感覚としては分かっているはずですね。できるできないは置いておいて。

 

鼠蹊部を緩めるように普段から稽古していますし、私がいまも苦心している「剣道の癖」を取り除く工夫も同じことの稽古です。抜刀の際に鞘手を握り締めないのも、抜付けでは右手で刀を振らないようにしているのも、同じです。

自由に動くためには、そしてチカラを得物に伝えるためには、体のどこかにチカラを入れてしまってはいけないということですね。何だか矛盾した表現ですけど。

チカラを入れた部位で感覚が途切れ、動きのつながりがそこで途絶えてしまうのです。

特に得物とのつながりの部分、つまり手の扱いが非常に大事になります。

私の場合、手の内を絞って、剣道の面打ちのように手の内を極めてしまいます。

言い換えるなら手の内にチカラを入れてしまうのです。

剣道の上手な人はそんなこともないのでしょうが、私レベルではそうなってしまいますし、そう教えられてきました。これが刀にチカラが伝わらない一番の原因とは知らず。

チカラを入れて手の内を固定化して、変化に対応できないようにしているのです。

自由ではないのです。

 

そうではなく、どこにもチカラを遍在させず、体全体の動きを得物を通じて相手に伝えることが技になります。先週書いた重力を利用するのも同じ理屈ですね。

自分でチカラを使ってしまうと、重力も利用できず、体の動きを分断してしまう。

これが「居付く」という状態ですね。

「居付く」というのは、チカラを使うために、体のどこかを固定化している状態でしょう。

固定化するので、とうぜん自由でもありません。

私たちは「居付かない」ように、ゆらゆらと動いて、どこにもチカラを入れないでふわふわと得物を扱うのです。世間一般の武道のイメージから遠いですね。

でも、武道では「居付く」ことを嫌います。

居付かないように、ゆらゆらふわふわというイメージで体を扱いましょう。