夏休みが始まったためか、今日は普段みない剣道を稽古する人たちが多くいました。
一方で普段よく来る人たちの姿が見えず、稽古場所は確保できました。
大森流、英信流表、太刀打、長刀合、棒合、小太刀、二刀ほかの演武用の技の稽古。
柔術は久しぶりに履形の稽古を通しで。
履形は久しぶりでしたが、四留や拳匪での体の遣い方と同じなので、思ったよりスムーズに稽古をすることができました。途中、四留や拳匪の同じ技を稽古することで、履形との違いもよく理解できましたね。四留や拳匪の理解が進むと、履形のレベルも上がります。
本当によく出来ている稽古体系です。
今回ようやく居合の稽古風景を掲示。
いつも一緒に稽古をしているので、写真を撮るのを忘れてしまいます。
こうすると一人一人の稽古がよく見えるので、気づいた点を個別に指導できますね。
居合がむずかしいのは、相手がいないことが一因ではないかと思います。自分が理に適った動きをしているのかどうか判断できない。剣術や柔術は相手がいて、自分の技が効いているのかどうかを判断できます。修正もできます。でも居合は一人稽古が中心。自分の感覚が頼りなのですが、この感覚が信用できない。そもそも力感を求めてはいけないと言われているので、何を頼りに稽古していいのか分からなくなってしまいます。
技を分解して動いてはいけません。鼠蹊部を緩めるのと鞘引きと体を開くことを別々に行ってはいけないのです。すべてを同時に少しずつ動かすのです。すべての動きが連携して一つの動作を作り出しているので、目に見える部位だけにとらわれてはいけません。
これがむずかしいのですけど、この感覚を身に付けるには、ゆっくり動くしかありません。
注意を払っていない動きに注意を払うには、ゆっくり動かなければなりません。
無意識の大きな動きを修正するには、ゆっくり動かなければなりません。
すべての動きに注意しながら動くには、ゆっくり動かなければなりません。
居合も剣術も柔術も、力任せに動いてはいけないのは勿論です。
しかし、日常の無意識レベルで行っている動作を基準にしてもいけません。
私たちは普段から無意識レベルで余分な力を多く使って生活しているのです。
一つ一つの動きをよく吟味して、無駄な力をそぎ落としていくことが必要ですね。
私自身もつい日常の動きやかつて学んだ剣道の動きが出てきます。油断大敵です。
さしあたっては、自分の姿勢矯正に取り組んでいるのですけど、もう体の遣い方の癖になってしまっているので、無駄な力を抜くのがとてもむずかしい。
動きの稽古というよりも、意識改革に取り組んでいるように思います。
でも、こういう稽古での気づきを日常に工夫し、日常の工夫を稽古に活かすというのが、楽しいことでもあります。
宮本武蔵の「常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事、肝要也」という言葉の肝要なところを修している訳です。