愉しい武道

先週は私用でお休みをしました。今日は2週間ぶりの稽古です。

が、雨のため長物は持って行けず。

講習会で学んだ居合や剣術を復習しようと長靴を履いて武道館へ。

いつもお会いする他流の方にお久しぶりですねとご挨拶を受けました。

私自身は一人で夜に稽古に来ているのでよく分からなかったのですが、確認してみると支部としての稽古は9月28日以来。10月は丸々武道館で稽古していませんでした。

その間、ずいぶん様相が変わってしまって、多くの子供たちが参加する剣道グループが稽古をするようになっています。

大きな声を出して元気で微笑ましいのですが、静かに稽古をした我々とは相性が悪い。

仕方がありません。まあ稽古を続けているうちに気にならなくなるのですけれど。

 

居合は大森流と英信流表をゆっくり稽古。師匠に教えて頂いたことを確認します。

私の反省点は相手が見えていないということに尽きます。想定は理解していても、そこに相手がいるようには稽古できていません。よって抜付けはもちろん斬撃も手前勝手な動きになってしまいます。ゆっくり丁寧を心掛けるのは、自分の心と体を変革するためには必要なことですが、自分だけを見ていればいいのではなく、相手も見えていなければなりません。

無雙神傳英信流では、一人で抜く抜刀の形だけでなく、相手を立てる形もあります。

自分と相手、そしてその繋がりを学んでいきたいと思います。

 

剣術は、こんど演武をすることになる手数から稽古。

小太刀、三學圓之太刀、試合口、陽之表、陽之裏を、場合によっては打太刀仕太刀を交代しながらの稽古です。

講習会での私の反省点はやはり剣道が出てしまうところでしょう。

どの動きに出てきてしまうのかは、絞られてきたように思いますが、払拭できませんね。

根深い問題です。

一所懸命やろうとしたり、無理に相手に合わせようとしたり、想定以上の速さや思わぬ場所へ斬り込まれたりすると、体にチカラが入り、それが剣道の動きを誘発するようです。

要するに慌ててしまうと、手首と肩をつかって何とかしようとしてしまい、まさにその動きがかつて学んだ剣道になってしまうのです。

そういう動きになってしまいがちな手数があって、場所が絞られてきたのは少しでも進歩してきているようにも思えますが、歯がゆいことはこの上もない。

 

稽古の中で気づいたことを、一旦立ち止まって整理して、また稽古に戻る。

そういう稽古になっていますが、お互いに気付きを共有できたり、ちょっとしたヒントで動きが劇的によくなることもあって、そういうときはとても楽しいですね。

武道の稽古の楽しさを何とかうまく言葉にしたいのですが、うまくいきません。

形や手数の稽古の中で、自分の心と体との対話、相手とのつながりといったものが細かく感じられれば感じられるほど、武道は愉しいものになるように思います。

愉しい武道の稽古を続けましょう。