稽古の工夫

先週に引き続き、今週も演武する形・手数を中心とした稽古。

斬撃のあと、奥居合の立業を稽古してから、詰合、半棒、柔術の技5本を交互に、大石神影流の手数も演武するものや小太刀、天狗抄に加えて陽之裏。

最後に、大森流と英信流表を稽古という先週同様の変則的な順番です。

が、体がうまい具合にほぐれて、最後に稽古する大森流と英信流表は柔らかく遣えます。

 

大森流や英信流表は、相手を立てずに稽古するので、自分の感覚を繊細に保つ必要があります。それが他の稽古で動きを繊細に感じるようにした後で、さらに感度を磨くという順番になっているようで、よい感じで稽古ができているように思います。

疲れてしまうと、感覚が鈍くなるので、そこのところは調整が必要ですけれど。

 

詰合や半棒、柔術、天狗抄は私も遣方、捕、仕太刀となって稽古をしました。感動です。

私の半分にも満たない稽古年数で、ここまで遣えるようになるとは驚きでもあります。

反面、私の稽古はいったいどんな効率の悪さかと呆然としてしまいますね。

師匠に何度教えて頂いても、なかなか理解がおよばず、自分勝手な稽古を積んでしまったという証拠でもあり、面目ない思いです。

反省は反省として、あまり深く考えると落ち込みが激しいので、適当なところで切り上げて、これからの稽古を考えます。「適当」という言葉は、本来よい意味だと思うのですが、悪い意味でつかわれることが多いのが残念です。

 

稽古では、無理無駄を排するように心掛けますが、これが容易ではありません。

とくに私には無理な姿勢が分かりにくい。無理な姿勢と感じれないほど、自然にチカラを用いているので、まずこの自然にチカラを用いていることを感じることが大事になります。

そのためには、少しずつ姿勢を変えて、どの位置が一番楽なのかを探すようにしています。

なので、私の稽古は常に同じ動きにはなっていません。厳密にいうと、普通は誰でもまったく同じ動きはできないと思うのですが、私の場合は意識して動きを変えることが多いのです。いろんなパターンの動きや姿勢を少しずつ変えていき、その変化の振幅が少しずつある一点へ収束するようなイメージでしょうか。

せっかくある一点に収束することができても、また何かの拍子に崩れてしまって、一からやり直しということも多いので、進歩が微々たるものであることも止むを得ません。

そういった工夫の時間が私には必要で、それが稽古の効率の悪さにつながっているとしても、それはやっぱり仕方がないと思わねばなりません。

 

師匠の動きや指導された内容を頭におき、楽に体で再現できるように工夫する。

その工夫の仕方は人それぞれだと思います。

互いの稽古で、工夫をしていきましょう。