桜モチーフの鍔 桃井春蔵墓(令和4年4月 筆者撮影)
わたしのお気に入りの居合刀
今回、武道史にほとんど詳しくないわたしが、大阪にゆかりのある剣術家について調べてみました。桜のモチーフからの桃。桃井春蔵直正がどんな剣術家なのか。まったくわかりませんが、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と呼ばれるほどの剣術家ということは、きっとすごい人だったのでしょう。
知らない人もわたしと一緒に詳しくなっていきましょう。
さて、わたしは桃井春蔵直正について調べるために、まずは大阪羽曳野市にあるお墓に行ってきました。
そのお墓は、前方後円墳である墓山古墳の南隣の誉田西墓地の一角にありました。
桃井春蔵直正は、1773年(安永2年)に開かれた鏡新明智流(きょうしんみょうちりゅう)の士学館の4代目。幕末の剣豪で、「品格随一」の剣術と言われ、気品があり、正統的な剣のさばきは絶妙で、上段を得意としたと伝えられているそうです。正統的な剣のさばきとは、どういうものか、実際にどんな流派でどんなに美しい剣さばきだったのか、見てみたいのですが、映像があるわけもなく、文献を読んで想像だけが膨らみます。
1.桃井春蔵はイケメンだった?
駿河国沼津藩士の家に生まれた桃井春蔵(旧姓 田中直正)は、2年ほど直心影流剣術を習い、天保9年(1838年)に江戸に出て、14歳で鏡新明智流の道場・士学館に入門しました。
16歳で師匠に才能を見込まれ、3代目春蔵直雄の娘の婿養子になり、名を桃井左右八郎直正と改めました。
23歳で免許皆伝。25歳で、師匠から奥義を伝授されるという「奥伝」を獲得し、27歳で4代目士学館館長を継ぐことになりました。4代目を継いだ春蔵は、イケメンだったらしく、颯爽たる姿で竹刀を構えると誰もが惚れ惚れする美しさだったとか!?
その美しい姿をみた幕臣の高木伊勢守が、「その姿勢、位は他に類無し」と称賛したことから「位の桃井」と呼ばれるようになったそうです。全国諸藩からの入門者が集まり、門弟は一時、1000人を超えたとのこと。どうやって門弟を増やしたのか、ぜひ参考にしたいと思います。
さて、桃井春蔵直正が隊長となった「浪花隊」(いまの大阪府警の前身)とその後について、調べていきたいと思います。
<参考>
・『古都おおさか再発見』p96~97
・『浪花隊顛末』長谷川幸延
・誉田八幡宮の宮司さんからいただいた資料