前回の昨年の夏に第七回に引き続いて、京都探訪の後半続編です。
前回は、文化財特別公開として旧嵯峨御所大覚寺に伝わる太刀「薄緑(膝丸)」でした。京都大覚寺と北野天満宮で源氏の重宝として伝来した兄弟刀である「鬼切丸 別名髭切」と「薄緑 別名膝丸」の伝承に加えて、今回は現代へ至る二振りの太刀に関して両社寺や源氏についても絡めながら、そしてGHQによる刀狩りを乗り越えた義経と頼朝の兄弟太刀と伝わる御神宝について記します。
鬼切丸は、源家相伝の日本刀で、鬼切安綱(おにきりやすつな)とも呼ばれています。今回の見学に訪れた北野天満宮では、2017年頃より鬼切丸 別名 髭切としています。また髭切は鬼丸とも呼ばれて来ました。平安時代に源満仲は、二尺七寸の太刀で罪人の者を切らせたところ、髭まで切ったことから髭切と名付けられました。清和源氏発祥の地、兵庫県川西市所在の多田の開祖の源満仲の長男頼光が、金太郎伝説のモデルとなった坂田金時ら四天王を引き連れて、京都大江山の鬼、酒呑童子退治に使ったとされる安綱銘の太刀「鬼切丸」が所蔵されています。
源満仲よりこの名刀を受け継いだ頼光が四天王の渡辺綱を使いに出した時に、護身用としてこの髭切を貸し与えます。この時に・羅城門の鬼を退治しに行き鬼の腕を切りとした事からか、一条戻り橋で美女に化けた鬼の腕を切り落とした事からか、または大江山の鬼退治の時に持っていたこの刀で鬼を切った事から、名前が「鬼切」と変わったと言われます。諸説色々であり、伝説とも言われており詳細はよく分かりません。
太平記によると、この太刀は、その後源頼朝ら源氏数名の手を経て、新田義貞の所有するところとなり、続いて義貞を討った斯波高経を経て大崎斯波家に伝わります。正平11年(1356年)斯波(最上)兼頼が山形に入部した際に帯同し、その後は子孫の最上家にて、代々家宝として所蔵されました。元和8年(1622年)最上家は後継者を巡る内紛により改易となり、最終的には近江大森陣屋にて五千石の交代寄合として存続しますが、その間も鬼切丸は秘蔵されました。郷土史家川崎浩良によりますと、参勤交代の際には鬼切丸もともに江戸・大森間を往復したといいます。道中、鬼切丸の評判はすさまじく、鬼切丸の下をくぐればマラリアに罹かからないといって、民衆は冥加金を出して、我も我もと争って鬼切丸の箱の下をくぐることを試したとの逸話が残っています。鬼切丸は、鬼切伝説に加えいつのころからかこのような厄除けの意味を持つ宝刀となっていきました。
こうして鬼切丸の名は世に知れ渡り、享保17年(1732)八代将軍徳川吉宗から上覧の沙汰があり、実際に実見されたといいます。また明治維新を経た明治3年には、明治天皇より請われてここ京都にて天覧に預かりました。
その後、最上家の衰退により鬼切丸が手を離れた際、名家の末路と家宝の離散を憂えた当時の滋賀県令籠手田安定氏の呼びかけにより、最上家、そして有志者等が集まりこれを官幣中社北野神社へ奉納しました。一説には、最上家の宝刀鬼切丸と知らずに入手した持ち主は、夜な夜な現れる「最上に帰ろう」と叫ぶ刀の夢に恐れをなし、崇敬する北野天満宮への奉納を決めたとのことです。
平安京の天門に位置し、菅公の怨霊を鎮めた御霊信仰・厄除けの社としても有名であった北野天満宮に御神宝として大切に納められ、以後鬼切丸は鎮まり、宝刀として現代へと伝わっています。
重要文化財:旧国宝 鬼切丸(髭切) 平安時代 長さ2尺7寸9分2厘、反り1寸2分3厘、元幅1寸7厘
持ち主の変遷:満仲-頼光-頼義-義家-為義-義朝-頼朝
名前の変遷:髭切-鬼切-獅子の子-友切-髭切
さて、このように時代を超越し現代に存在している太刀や刀ですが、日本刀を語るうえで避けては語れないものの一つに「GHQの刀狩り」があります。第二次世界大戦直後、連合国軍占領下の日本において「日本刀」は存在の危機にさらされます。
1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、敗戦国である日本の占領政策の一つとして、武装解除の名のもと大規模な「刀狩り」を実施しました。「銃砲等所持禁止令」により、狩猟・競技用を除いた銃器類と、膨大な刀剣類(脇指、槍、薙刀も)は警察署を通し接収され、「海洋投棄」などの処分を受けました。日本刀は「武器」に含まれるのか?家宝ならどうなのか?といった議論もあったようですが、結局は日本刀も回収の対象となり、刀をつくることも一時期禁止され日本刀すべてにとって、長い歴史の中でも最大の危機でした。新渡戸稲造の「武士道」には、元服して刀を持つことは精神発達上極めて重要だが、その刀をむやみに使うことは、武士として一番愚かなことだったと解説しています。礼節、節度を保つためにこれを携えたのであり、争いを抑止し、平和を保つためにつくられていた日本刀であり、敗戦後に刀を持たせないことで、日本人のその高い精神性を薄める目的であったり、占領政策として敗戦国の抵抗を排除するための政策でもあったのでしょう。
前回に掲載した大覚寺の薄緑と、今回掲載した北野天満宮の鬼切も例外ではなく、進駐軍の関係部隊に提出せよと、回収の対象となった経歴がありました。今回探訪した髭切丸に豪華な拵はなく、現在は月日の経過とともに飴色に変化しているものの、当時はシンプルな白鞘であったろう鞘の一部に、赤いインクの英字で書かれた札が貼り付けられていました。この札については戦中、戦後の混乱に際し正確な情報がありませんが、戦中に金属回収令で回収されたが米軍を経て戻ってきたか、戦後に進駐軍の武器回収時に西陣警察へ届出たが、後に事実上の美術品であり、また復員軍人と区別された一般市民の所有である場合にのみ美術品と確認され返却されたか、との見方があり回収を避けることができたようです。この兄弟刀の二振り共に同じ札が貼り付けてありました。
武器とみなされた回収の実情は地方により異なり、例えば熊本では占領軍が積極的にジープで巡回して頻回に直接民家に立ち入り調査がありました。内務省資料によると、日本国憲法が制定された1946年(昭和21年)に全国で回収された刀剣類は、日本刀897,786、槍類144,407、軍刀294,176、銃剣58,2106、日本刀と槍だけでも銃火器類の二倍以上の100万本を超えています。美術的刀剣は対象外とはなっていましたが、回収された刀剣の中には数々の名刀も含まれていたという事です。
関東地方の武器は、東京赤羽に集められ三菱製鋼で約30万本が裁断・スクラップとなり、奈良県では鋳物工場で動輪に姿を変えました。
山形県では、日本海に投棄処分とされ、熊本県でも有明海に投棄処分されました。回収されてしまった国宝や重要美術品の日本刀39口も現在まで、行方不明となったままです。当時は、刀剣保持許可や美術骨董の価値を誰がどのような基準で決めるかなど各地で現地占領軍と日本の警察で、もめごとが絶えず多数の名刀を有する京都でもトラブルが多かったと聞き及びます。
このような混乱した時代を経て今、私たちの見ることができる太刀や刀の現存は、空襲に備え刀剣を強い意志を持って守りぬくという先人の必死の刀剣疎開や、運よく回収を免れ返還された、奇跡の一振り一振りなのだということを改めて心に思いをはせました。
参考:
月刊誌『致知』2018年1月号、
新渡戸稲造『武士道』、
朝日新聞1995.11、
神戸新聞2021.4掲載、
太陽出版 GHQと京都刀剣、
北野天満宮・多田神社境内掲示物と宮司様、
太平記、
文化庁