前回12月の第三弾からの続きです。
大坂の奉行所で稽古されていた起倒流柔術について、天保15年(1844)刊の『武術流祖録』によると、「起倒流 寺田勘右衛門正重」の項に「京極丹後守高國(ノ)家臣也 寺田平左衛門ヨリ福野流ノ柔法ヲ傳(エ)而精妙ト為ス 福野正勝三代也 積功累年其妙ヲ究メ 改メテ起倒流ト号ス」、「福野流 福野七郎右衛門正勝」の項に「摂州浪華ノ人也~門二茨木専斎、寺田平左衛門傑出タリ 推而、福野流ト称ス」とあります。この書物では、摂津国浪華(今の大阪市)出身の福野七郎右衛門が福野流の創始者で、その三代後の寺田勘右衛門が起倒流を編み出した、と紹介されています。そのほか、「起倒流の起源は、福野七郎右衛門正勝が茨木専斎俊房と共同して良移心当流(福野流)を興した。茨木専斎は、これを新しく起倒流(起倒乱流)と名付けた。」と紹介する書物もありますが*1、いずれにしても、起倒流において重要な人物である福野七郎右衛門は、安土桃山時代の永禄年間生まれの大坂の人のようです。
また、先ほどの「起倒流 寺田勘右衛門正重」の項の続きに「其門若千末流諸州二多シ 京極家断絶ノ後雲州松江侍従門二仕フ 同藩吉村兵助扶壽傑出タリ 作州津山森家(二)仕(エ)二百石ヲ領ス」とあるのですが、この吉村兵助の門人の堀田佐五衛門頼康(万治元年(1658)~享保9年(1724))は赤穂藩で「起倒流柔道雄雌妙術」を伝承していました。ところが、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りつけ浅野家が取り潰しになった影響で、近習役として仕えていた赤穂藩から脱藩して大坂にて道場を開き、「起倒流柔術の中興の祖」と呼ばれたそうです。その門人の滝野遊軒貞高(宝暦12年(1762)没)の代にかけて京都、江戸に道場を構えた起倒流柔術は大いに隆盛しました*2。こうしてみると、起倒流は、大坂と縁の深い柔術流派と言えそうです。
起倒流の稽古法の変遷を考察した論考によると、形中心の稽古から、やがて「形の攻防の延長上として取方(剣術でいう仕太刀)の技が理に適っていないときは請立(剣術でいう打太刀)も無理に倒れない、請立が残ることもある」という「残り合い」の考え方が生まれ、19世紀、江戸時代の後期には「勝負合い」という多少荒さも認められる稽古法が書物に登場し、更に「乱稽古」に繋がった、と紹介されていました*3。起倒流柔術は投げ技が主体であったため、比較的自由に攻防できる乱取が生まれやすい土壌であったそうです。そして、明治15年(1882)、講道館を設立した嘉納治五郎(1860~1938)は、起倒流柔術と天神真楊流柔術を合わせて危険な技を省き、「手技・足技・腰技」の分類と「投げ・掛け・払い」などを組み合わせて技を組み換えて、乱取中心で試合形式も取り入れた講道館柔道を作り上げたと言われています*4。
貫汪館のブログ「道標」によると「現在も柔術には流派ごとの多様性が存在し、古武道演武会に赴けば各流各様であるということが分かります。しかし、明治維新以降、戦前まで柔術においても大日本武徳会のもとで乱取の画一化が進められていきました。講道館柔道がその中心であったのですが、各流派にあった独自の乱取の技を恣意的に取捨選択し、全国的に統一していきました。」(道標2007/07/11)、「広島では多くの柔術流派がなくなってしまいましたが、その大きな原因の一つが講道館形式の乱取をせざるを得なくなったことにあります。乱取の技法体系とその流派が持つ形の技法が異なっているために、大日本武徳会で試合に勝とうとすれば、乱取では反則になるような形の稽古は不必要になってくるからです。不必要なものは稽古しませんから流派の形は失われていきます。」(道標2022/6/16)とあります。
おおさかのご縁として紹介してきた天神真楊流柔術、真之神道流、起倒流柔術に限らず、各柔術流派は少なからず講道館柔道に影響を与え、またその影響を大きく受けてきました。筆者としては、現代に残る各流派が、活きたものとして連綿と継承されていくことを改めて願うところです。
さて、筆者は、堀田佐五右衛門の墓が大阪市北区兎我野町の本傳寺にあると知り*5、令和4年3月に、経緯を伺おうとしたことがあります。このお寺は、豊臣政権時代の文禄年間(1592年‐1596年)創建で、新撰組の谷三兄弟(新撰組槍術指南役や七番隊隊長を務めた谷三十郎、新撰組大坂屯所の長を務めた谷萬太郎、新撰組局長近藤勇の養子となった近藤周平こと谷昌武)の供養墓などもある由緒あるお寺です*6。初めに電話であらましを申したところ、「以前には柔術関係の方の墓碑もあったが、タキノと名乗る柔術関係者が京都へまとめて移転された。多くの墓碑が倒壊した平成7年(1995年)の阪神淡路大震災前後のことだったと思う。しかし堀田という名に覚えはなく、その方の墓碑がその中にあったのかどうかは分からない」という旨、穏やかな女性の声で応対をいただきました。伺った「タキノ」というお名前が堀田佐五右衛門の門人の姓と被ったので、何とも不思議な厳粛な気持ちになったのを今でも覚えています。
(摂津国妙見大菩薩 日蓮宗高照山 本傳寺HPより)
*1 『武芸流派大事典:増補大改訂』綿谷 雪/共編 東京コピイ出版部 1978 p218-219
*2 『図説・古武道史(青蛙選書 24)』綿谷 雪/著 青蛙房 1967 p245-248
*3 『柔道の歴史と技法』藤堂良明ほか 講道館柔道科学研究会紀要 第16輯 p26-27
*4 『武道の歴史とその精神 概説』魚住孝至 武道論集1-1 p18
*5 『日本の古武術』石岡久夫、岡田一男、加藤寛著 新人物往来社 1980.10 武術家墓碑一覧
*6 摂津国妙見大菩薩 日蓮宗高照山 本傳寺HP