第1章では、桃井春蔵直正の生い立ちやどのような剣豪だったのかについて述べ、第2章では、大阪府警の前身となる「浪花隊」をつくったことや、晩年は誉田八幡宮の神官となって過ごされたことについて述べてきました。第3章として、桃井春蔵直正と同じ時代を生きた剣豪たちについて触れたいと思います。
大石進、千葉周作、武市瑞山、武田惣角、坂部大作、近藤勇、千葉栄次郎、斎藤新太郎、岡田以蔵、島村衛吉、上田馬之助、中井亀治郎、逸見宗助、武藤為吉など、その他にもたくさんの剣豪たちが、桃井春蔵直正と同じ時代を生きておられます。
桃井春蔵直正の剣は、凛とした気品と風格を兼ね備えており「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評価され、桃井の道場である士学館は大いに栄えたといわれています。桃井の真骨頂は刀を抜かずに相手に勝つことにあり、物静かな態度と気合いで相手を圧して場を収めていたとあり、その評判を聞きつけた土佐藩士・武市半平太や岡田以蔵らが士学館に入門したとの記述がありました。また、九州一の剣豪といわれている松崎浪四郎が対戦した中で、(松崎が勝ったが)特に強かった3名をあげ、そのうちの一人が桃井春蔵直正であったとの記録もありました。
そこで、「桃井春蔵直正は、本当にそんなに強かったのか」について調べてみました。なかなか試合をしたとの記載が見つからなかったのですが、館長の論文には、「『藤堂和泉守様稽古之次第』に記述された試合が藤堂藩江戸藩邸で行われていること,試合の出場者名および試合の組み合わせが「武藤為吉尺牘」の記述と一致することから『藤堂和泉守様稽古之次第』は嘉永4年5月19日に藤堂藩江戸藩邸において行われた試合についての記録であると比定する」とあり、大石進が桃井春蔵直正(桃井左右八郎)と試合をしたということがわかりました。(以下、引用)
(写真)『藤堂和泉守様稽古之次第』
(写真)「寄人数試合勝負附」
上記引用の写真は、大石進と桃井春蔵直正(左右八郎)との試合の組み合わせ等が書かれています。
(以下、抜粋)
上記引用分によると、桃井(左右八郎)は手を出せなかったくらい大石進のほうが強かったということがわかります。
さらに、嘉永4年に久留米藩の神陰流の師範加藤田平八郎の門人武藤為吉は、江戸の津藩邸で桃井と試合をしているが、武藤為吉は師に送った手紙の中で、桃井春蔵直正について、桃井は、試合では勝ちを譲る篤実な人と聞いていたが私との試合では、そのような様子もなく面金に届くか届かぬかの軽い打ちでも一本を主張し、歩合を争ったとして次のように試合中のやり取りについて述べています。
「(桃井は)今ノ面ハ少軽ク候抔与(と)口上ヲ附候ニ付、僕(武藤為吉)云、足下之撃刀片手打ニして漸面之穂ニ届欤(か)届ぬを被引揚候が中り(あたり)与(と)被思候哉、勿論僕撃刀も軽クハ可有之候得共両手ニ而撃太刀面ニ不届与(と)云事ナシ、夫丈の差別ハ有ルソト申候(註:桃井は今の僕の打ちを少し軽いと言ったので、あなたの打ちは片手打ちで面金に届くか届かないくらいなのに一本だと思われて後方に下がられたが、私の打ちは軽くても両手でありあなたの面に届かないということはない。打ちにそれだけの違いがあるといった)」
桃井春蔵直正は、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評価され、士学館は大いに栄えていたため、剣に自信もあり、他流試合での負けを認められなかったのでしょう。
この時代を生きていた様々な流派の剣豪たちが切磋琢磨して競い合っていたことや誰と誰が試合をしたのかなどのつながりも垣間見ることができました。
【引用文献・参考文献】
・森本邦生著 『嘉永4年の藤堂邸における剣術試合の様相について』
・森本邦生著 『剣豪大石進と大石神影流剣術』
・高橋強著 『浪花隊 幕末の剣豪 桃井春蔵』